若林史江女史とは |
最終更新日:2023/01/29 |
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若林史江女史についての個人年表、略歴です。大手情報サイトWikipediaでは盗作事件とあまり関係のない趣味嗜好のエピソードが載っていたり、逆に何者かによって盗作事件に関するエピソードが削除されていたりします。 ここでは 彼女自身の著書やインタビュー記事、報道などで明らかになっている彼女の個人年表、略歴をつづっていきます。 1977年(S52)10月07日 0歳 横浜市に誕生
1982年(S52)04月01日 4歳 幼稚園入園 このころの将来の夢は看護婦(ちなみに史江の母親は看護婦) 1996年(H8)04月01日 18歳 卒業後は四年制看護学校に進学することを希望していたが合格できず、浪人生活を始める。 1996年(H8) 時期不明 父親が経営する工務店が倒産。理由はバブル崩壊のあおりとのこと。 1996年(H8) 時期不明 看護学校の一次試験は合格するものの二次試験で不合格。表向きには不合格と進学断念の理由は”内申書に不備があった。高校の先生は、今からでも受験し直してはどうか? と勧めてくれたが、家業の工務店が倒産して大変な最中なので、進学を諦めた”とのことであるが、実態は不明。 1996年(H8) 時期不明 携帯電話販売店などでアルバイトを始める。 1996年(H8) 時期不明 家にお金を入れるため、とにかくお金を稼げる仕事を求める。求人広告誌の”高給求人募集”に掲載されている会社に片っ端から電話をかけて面接の予約を入れ、最初に受けて受かったのが、投資顧問会社イー・キャピタル。当時は何をしているのかよく分からなかったけど、「お金さえ稼げればどこでもいい」という感じで就職したとのこと。 電話対応の良さを買われ、3か月たたないうちに事務職から営業職に配置転換。 マニュアル通りに電話営業するが、若い女性の営業がほとんどいなかったこともあって、客からのセクハラも結構あり、「契約するから食事に付き合え」とか「株の値段より君の値段教えて」などと言われることも日常茶飯事だったとのこと。
300円の低位の材料株を買ったところ、2週間ぐらいで450円(1.5倍)になった。ビギナーズラックであったがうれしかったとのこと。 株式投資が面白くなり、営業成績も伸びるようになった。それからは最低限の生活費だけ残して、残りの給料は全部投資に注ぎ込んだ。欲しい服があっても我慢し、だんだんブランド物などへの興味がなくなってきた。20代は全て株にささげたようなもの、とのこと。 2000年(H12)頃 時期不明 会社がHPを始めたばかりの頃、「私、日記を書きたいんですけど」と言ったら「いいよ、好きなようにやんなよ」と言われて、日記コーナーを始める。ペンネームは「相場舞」(あいば・まい)。株式相場が舞い上がるようにとの意味があるとのこと。現在のようなブログシステムが存在せず、また株式投資業界において女性の存在が珍しかったため、このHPの日記は注目を集め、投資家からはネットアイドル的存在となった(自称)。 時期不明 会社から契約書を渡されて、書いた内容やペンネームは会社のものだから、よそで使ったら法的な手段をとる、と言われて、納得できないまま、サインさせられた。その他、会社と意見が衝突し、ある時、HPが閉じられてしまう。「もういいや」と思い、会社を退職してしまう。 親しくしていたマネー雑誌の編集者に「名前は取られたとしても、自分で築いた人脈は自分の宝物なんだよ。それを生かすも殺すも自分次第だ」と励まされ、雑誌で連載を始めさせてもらう。 2000年(H12) 時期不明 23歳 株式投資開始から3年で全財産を失いかける。何をやってもダメ、裏目裏目に出た時期、いろいろ勉強しても株が分からなくなる一方だったとのこと。
2000年-2001年(H12-13)時期不明 仕手株の値上がり(ウィン(銘柄コード4710):現在は上場廃止)で約1200万円を儲けた、とのこと。彼女のキャッチコピー”一銘柄で1000万円以上儲けた”はこのことのようであるが、本人談なので実証不明。
このころからテレビ番組で女性デイトレーダーとして紹介されたりして、仕事が増えるようになる。
2005年(H17)10月7日 28歳 若林史江28歳の誕生日に合わせて、有限会社F&Dを設立する。 2006年(H18)04月 若林史江が最初に就職した投資顧問会社 イー・キャピタルが、誇大広告で証券取引等監視委員会から行政処分勧告、業務停止、改善命令を受ける。 2007年(H19)04月 29歳 山口県周南市(旧市名:徳山市)の私立徳山大学の経済学部特任講師となる。担当授業は「現代株式市場論」。これは地元の第二地銀であり徳山大学の取引銀行である西京銀行による寄付講座である。(当時)西京銀行の名和田達郎氏と共に授業を担当するが、若林史江が担当するコマは1か月に1回だけで、残りは全て名和田達郎氏が担当する。 なお、2012年現在、特任講師は解任されて、現在は徳山大学では教鞭をとっていない。 2008年(H20)06月16日 30歳 夕刊フジが一面大見出しで「美人株トレーダー 日経盗用50回」と盗作事件を報道。若林自身が出演していた「5時に夢中!」番組内でもこの新聞記事は紹介された。 詳細は日経新聞盗用1700回事件を参照の事 この事件は引き起こした内容ががあまりにも重大だったためにこの週を最後にまず東京MXテレビ、TBSラジオを降板させられる。その後も次々とレギュラーを降板させられ、当時持っていたTV/ラジオ出演、雑誌連載は全て降板させられた。 以降、大手のテレビ・ラジオ局での仕事のオファーはほぼ絶無となった(東京MXテレビ「5時に夢中!」を除く)。事件前には「株式投資セミナーの司会・講師」という仕事のオファーが沢山あり、特に日経新聞社からの依頼が多くあった 。 若林史江はこの盗作行為を「外部委託者が勝手におこなった犯行である。私は全く気が付かなかった」とラジオ・テレビで生謝罪した。 若林はこの外部委託者について、一切明らかにせず、実在の人物か否かは誰も知らない。この謝罪コメントの真偽の判定は、視聴者、業界関係者にゆだねられることとなった。 2013年(H25) 事件以降、日経新聞からの仕事の依頼は完全にゼロとなった。 証券会社、先物取引会社からの「投資セミナーの司会・講師」のオファーも、事件前とは比べものにならないほど激減し、ほぼゼロとなった。 事件前は著書、共同著作による書籍の出版やNintendoDS専用の株式シミュレーションゲームなどの発売も数多くあったが、事件後に出版された書籍、ゲームなどは一切ない。 西京銀行による私立徳山大学での寄付講座「現代株式市場論」も、若林のみ解任された。(2013年(H25)現在も寄付講座「現代株式市場論」は続いている。講座開始当時、若林とペアを組んでいた名和田達郎特任教授のみが残って教鞭を執っている) いわゆる”マスコミ業界を干された”状態となる。2013年現在もこの状態は続いている。 この現状こそが、彼女の盗作事件に対する業界関係者が下した判断そのものである。 2013年(H25) 2013/09/08(日) 昭和女子大学 人見記念講堂におけるファイナンシャルアカデミーの司会に若林史江氏起用されるとのことです。 詳細はこちらから 同HPにおける彼女の経歴にはだいぶウソがありますね。添削しておきましょう。 (http://www.f-academy.jp/page/festival.html より引用開始)
司会 若林 史江 氏
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最終更新日 : 2023/01/29